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はじめに / R&R partnerメリット / 開店まで


■R&R partner 千葉店
 蛭間寛
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第一章

 中学の時初めて自分にとって人生を左右する選択がせまられた。なぜならその時の私の夢はサッカーでプロになることだったからである。そしてブラジルに行く事。しかし、15歳の少年が抱く夢など誰にも受け入れてはもらえなかった。誰かにそのことを言えば反対され「あそこの高校に行ったらどうだ?」と答えが返ってくるだけだ。そこにあったのは自分での選択ではなく、高校に進学というごくごく平凡な『普通』の道しかなかった。自分を無理矢理納得させ高校に行く事に決めたが夢をあきらめずにいた。高校に入学して数カ月たった頃今しか出来ない事、今の自分に出来る事を冷静に考えてみた。答えは一緒だった…。ブラジルに行ってサッカーがしたい。思い立ったらすぐに行動に移さなければ気が済まない性格の私が(ただのワガママかもしれないが)高校に入学など奇跡のようなものだった。それから約半年間また大人たちとの戦いが始まった。今度は必ず勝つ、そう心に決めて。毎日のように担任が家に来て自分のことを説得に来たが、そんなことに耳を傾けるわけも無かった。その時、親や担任は私にこう言った「サッカーでプロになるのはかなり難しいことだぞ、もし成れたとしても怪我をしたらおしまいだし、サッカーをやめた後はどうする?学歴もないお前など就職するのもむずかしいぞ。考え直せ」とこんな感じのことを何度も何度もいわれた気がする。今となっては私のことを本当に心配してくれていたのだろうと思う。しかし、その半年間自分の気持ちは変わらず今度は無理矢理周りを納得させてブラジル行きが決まった。


第二章

 高校一年終了後単身ブラジルに渡った。しかしそこにはとても厳しい現実が待ち構えていた。一番初めに私が住んだ町はミナスジェライス州ベロリゾンテ近くの決して裕福とはいえない田舎町。そこのクラブに約半年お世話になった。初めは言葉も解らず日本人は自分ひとり、弱音を吐く相手すらいない。町を歩けば「ジャポン!!」「スシ!!」など馬鹿にしてくるやつらもいた。日本から持っていったユニフォーム・CD・カネなど盗まれたこともあった。後から考えてみれば、そこでサッカーをやっている奴らは特にスラム出身者が多くいたのだった。しかし、盗まれてみて頭にも来たが色々と勉強になった。そんなところに高価なもの(そこでは)を持っていった自分が馬鹿だった。それからは、ブラジル人と同じ物を食べ、同じ言葉を話し、一緒に学校に通うようになった。休日はチームメイトの実家に一緒に帰って泊まってくることもあった。ブラジルの田舎町の貧しい所などに私のような純日本人が来る事など大変珍しいこともあり、皆親切にしてくれたこともあった。数カ月たった頃にはすっかりブラジル人になっていた。それから知り合いの日系人の方の紹介でエスピリットサント州ヴィトリアにあるチームに移籍した。そこのチームはブラジルでもまあまあ有名なチームという事もあり、ブラジルの広範囲から選手が集められていた。レベルも今までいた田舎のチームとは比べ物にならないほど高かった。しかしもうすでにブラジル人になっていた私は多少珍しがれはしたもののすぐにチームメイトに溶け込めた。どんな場合でもそうだが、海外で環境に慣れることはとても大切なことだ。チームメイトと一緒にスタジアムの観客席下の寮での生活が始まった。楽しい生活だった。シャワーは水しか出なかったけれど…。

 いざ、サッカーになれば熾烈な争いが、まるで戦争のようだった。少しでもミスが続けばクビになる。皆プロになって家族に少しでも裕福な生活をさせたい。そのような目的のある16歳〜19歳までの選手ばかり集まっていた。時にはチームメイトが有名なプロチームから数十万ドルでプロになったやつもいた。その2週間後にはテレビでそいつがプレーしている。うれしいようでとても悔しかった。

 17歳の頃の私には代理人として私のことをマネージメントしてくれる父親のような存在のドグラスというブラジル人がいた。彼にはとてもお世話になった。住む所・食事・学校そして何より彼のような存在があったからこそサッカーに集中できた。時には日本の高校が夏休みを利用して短期留学して来る事があり、通訳の仕事も何度かする機会もあった。そこまで出来る様になったのも彼のおかげである。公式戦でプレーもした。18歳になった頃、突然のアクシデントが私を襲った。試合中の出来事だったが、選手生命にかかわるほどの怪我を負ってしまった。誰も責めることはできない。皆生活をかけてサッカーをやっている。かわせなかった自分が悪いのだ。それから色々な医者にも診てもらいリハビリも続けたがまったく良くならない。焦りが尚回復を遅らせた。8ヶ月リハビリをしたが、完治しなかった。19歳になった私は帰国を決断した。そのときあの担任の言葉が脳裏をよぎったが後悔は無かった。


第三章

 ブラジルでの3年半の生活。日本の高校に通っていたより何倍、何十倍とたくさんの経験を積む事ができた。これからの私の人生において、とても貴重な財産となる。とその時確信していた。

 帰国して2〜3ヶ月後、人と同じことをしていてもしょうがないと思い商売を始めてみた。はじめは順調にスタートしたが、約2年で会社は倒産。2千万近くの借金だけが残った。21歳の冬だった。


 それからは死に物ぐるいで働いた。工事現場、とび、夜中の工場、いくつかの仕事をかけもちしながら借金を返済していった。時には仮眠だけで働くこともあったが《いつか必ず何かやってやる!!》その思いがあったからこそ、苦しい日々を乗り切れたと思う。失敗したのもののそこでも他の人が味わうことのない経験を積めた。以前長谷部氏が言っていた事だが、結局何かをやらない人はやるまえからネガティブな事ばかり考えてしまいその結果、やらないことが多い。と言っていたのを思い出す。自分の周りもそういう人間ばかりだ。決して否定しているわけではないが。


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第四章

 それから何かをしたい…。何かをやりたい、そう思っていた矢先に長谷部氏をテレビで見た。なにか言い表わすことのできないその自分がしたい何かがそこにあった。長谷部氏とは2003年4月に初めて出会った時彼が言っていたこてゃ「俺は社長になりたくてなったわけじゃない。金持ちになりたくて始めたんだよ」当たり前のようなことだったがそのときの私にはとても衝撃的な言葉だった。そこで長谷部氏の話をもっと聞いてみると、そこには私のやってきたこととまったく正反対の成功者がいた(単純に考えて失敗の反対は成功だがその単純(柔軟)に考えることが簡単なようで難しいものだ)。そのとき漠然とこの人と一緒に仕事がしてみたい、何か自分にとって成功するために必要なものを長谷部氏はたくさん持っている気がした。



第五章

 ようやく2003年9月20日、千葉にROMANDOをオープンさせることになりました。これからたくさんのお客様にROMANDO独特の雰囲気、そしてフランスロールを食べていただき感動していただけるよう、努力していきたいと思っております。たくさんのお客様のご来店、スタッフ一同心よりお待ちしております。



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